[ 大地と樹木と太陽のモデル ]

 私は、講演や顧問先様などで人事や賃金の説明するとき、よく樹木の絵を描きます。
 「人財」という字を書く人もいますが、「人間は海底で口を閉ざしている貝ではありません。人間は「木」です(楠田丘)。」木のように才能を成長させる人と書いて、本来の「人材」です。そしてもう一つの意義、樹木は太陽から得られたエネルギーを大地と循環させます。
 大地は、環境・風土。樹木は大地によって育てられますが、同時に大地を変えることができます。
 根は能力、幹は行動すなわち仕事そのもの、そして果実は成果の喩えです。
 最近の若年者の風潮を見ると、大地から萌え出る双葉のエネルギーを大切にしなければならないと感じています。

 最近は、必ず樹木の上に太陽を描いています。雪印事件をはじめとする一連の不祥事が各方面で明らかになった頃からです。残念ながら今の世の中、樹木が真っ直ぐ上に伸びるとは限らないのです。
 太陽はミッション…使命、社会的役割、存在理由、根本的戦略の喩えです。
 ミッションはそこに属する人間に、勇気を与える言葉でなくてはなりません。
 テレビで見た雪印乳業の工場には次のような看板が掲げてありました。
 「品質は私たちの良心です」
素晴らしいミッションです。P・Fドラッカーが「好きだ」というシアーズの「全米の家庭にとって、十分な情報をもつ責任あるバイヤーとなる」に勝るとも劣らないものです。そして空が曇ったとき、個々の業績がミッションから外れたとき、一瞬にして企業は吹き飛ばされます。
先日、ある外資系の顧問先様で、そのアメリカ本社の新社長の就任演説を聞かせてもらいました。まずは最初にミッションが語られます。当社の特性と優位性、技術の核心、それらを土台にした新事業への展開、未来への可能性…日本語では短歌ほどの一文で、それら全てが見事にイメージされるよう表現されていました。そして次に社員は今、何をしなければならないかが明確に語られます。
 今、新聞などを見ると、社員に自己責任と成果を問う思潮が強まっています。それは、理のあることとして、同時に経営者はこう自問すべきです。
「我が社に太陽は輝いているか!」

今、盛んに言われている「成果主義」は、「結果主義」に堕してはいないでしょうか。
もちろん「目標」は常に具体的でなければなりません。
動機や希望や野望が、「望み」が見えるように、イメージとなったときに、それは「夢」になります。夢に日付が入ったとき、それは「目標」になります。
「フランスに勝つべし!」とドイツの王様が言うのはおかしな事ではありません。(ただし「大義」が必要です。それが「太陽(ミッション)」です。)しかしその言葉に「そうですね。勝つべし。勝つべし。」と追従する将軍がいたとしたら、将軍としては失格です。「とりあえず今日の会戦に勝て。明日も勝て。明後日も勝て。」と叫ぶだけなら、無能です。
勝利とは何か。将軍は「○○までに、パリを陥落させる。」と言わねばなりません。現状から「パリ」まで、何をなすべきかを練り、その道程(プロセス)が戦いそのものです。

 樹木モデルで成果とは、「果実」を実らせるということです。成果は、人間が食べるためや絵を描くためにテーブルの上に置いてある「果物」というような結果とは明らかに別なものです。樹木は人間に食べさせるために「果実」を実らせるのではなく、(もちろん肥料をもらった人間に「果物」を提供することは必要です。)本来は樹木を繁らせるために「果実」を実らせるのです。 
 その成果を「見る」には、テーブルの上の「果物」をジューサーで搾って、甘いか、酸っぱいかを「査定」するだけではなく、枝につながったままの「果実」を樹木とトータルで、なぜうまく実ったか、実らなかったかと、見て、考えることが必要です。
「考課」とは課した仕事そのものを考えることです。
端的に言えば「やるべきことをやっているか」ということです。甘い酸っぱいだけを問えば、社員は「天候(経営戦略)が悪く、土壌(会社)が悪い。」と、はなから言い訳をはじめるでしょう。                   
 果実を実らせる直前に咲く「花」が大切です。成功の直接原因−サクセスポイントです。または失敗の直接原因、そこにも多くの意義があります。

人事について「時間軸」の否定を言う思潮があります。「過去よりも現在へ」という意味ならば半分は正しいと思います。
たしかに「時価」という言葉は大切です。「今何ができるか」という問いです。
「部長を○年やってました。」と言うようなことにこだわる方がいれば、次のように言うべきでしょう。
「あなたはすでに報われています」
過去の実績は、現在までの昇給や賞与でとっくに決済済みなのですから。ただし、「その時何をしたのか」という人間活動の「時間軸」まで否定するならばとんでもないことです。
「温故知新」は、決して生ぬるい保守的な言葉ではありません。そこにこそ、ノウハウと成功の再現性があるからです。
そのためには「その時いくら売れたか」という過ぎ去った過去の栄光ではなく「何をしたのか」という「何をすべきか」につながる「過去から現在、そして未来へ」という時間軸でなければなりません。

「自己責任」の時代といわれています。しかしその、他に問う自己責任は、自らに無責任な「丸投げ」にはなっていないでしょうか。人事の問題について言えば、「経営者が人事部やコンサルタントに」ということです。
 人事ソフトへの幻想などは丸投げの極みと言えます。「経理、会計がソフト化できるならば人事も」と発想する気持ちはわかりますが、人と金は同列に語れるものではありません。人件費ではなく、あくまでも生産の原動力である社員の仕事、さらには生活をも考慮しなければならない人間の行動は、野球やゴルフのような閉ざされたゲームではありません。もともと人間はデジタルにはできていないのです。

デジタルにできていない人間に、いかにやる気を出して働いていただくか。私は正確な人事よりも納得がいく人事が大切であると思います。そして人間が始まったときから、自分を納得させ、人を納得させ、さらに自他と世界を発見するのものは「対話」です。本当の対話の中からは、納得だけではなく、驚くような戦略がでてくるものです。
 「学問に王道なし」の「王道」が「楽をして」という意味ならば、人事に王道はありません。
 「王道と覇道」という意味ならば、基本的に人事は王道でなければなりません。会社は今日だけではなく、明日もあるべきだからです。人事は、経営者と管理職、責任者と部下といったラインにこそあるものです。
 「フラット型組織が良い」と言われてきました。確かに、幾層もの巨塔のような組織は不効率で、ムダで、なにより経営と顧客を遠く引き離すものです。だからといって、経営トップと一般社員の間を「抜けば良い」というものではありません。そのような「なべぶた組織(平たいアルミのふたに黒いツマミがポツンとついている)」に起こることは、頭使わないで、なんでも社長に聞いて、成果が出なかったら「ボクらのせいではない」という、とても無責任な風土です。管理するだけではない、指導する体制のためには権限と責任の有機的な配分が必要です。
 我が国は、失われた10年を過ぎ、ITミニバブルを経て、いまも最悪を更新し、今後もまだまだ失われ続けていくように思えます。
 そのなかにあって、「新しい!」と言っては箸を左手(左利きの方は右)で持ってみたり、「改革だ!」と言っては、道から外れて脱輪したりというレベルの論議が、人事労務の世界にも「貧すれば鈍す」で、甘いキャッチフレーズとともに、またでてきたように思えます。そのような思潮に異議をはさみたく筆を執りました。私もコンピテンシーとかミッションとか横文字を口にしますが、「基本は外さない」これが大切です。