[ アテネ・オリンピックを見て ]

 オリンピックを見ました。特に谷亮子選手の今大会最初の金メダルからその勢いに期待して毎日見てしまった柔道は、「さあ、寝ようか」という頃合いに準決勝。「この後、○○選手の金メダルがかかった決勝戦を放送します」とテロップが流れると、ビールをチビチビ飲みながら、待って・・・・・・、決勝戦が始まると、夜中だというのに、思わず声を出して本気で応援して・・・金メダルを取ると興奮して、本人やご家族等の涙と喜びの声を聞きながら、けっして直ぐに寝られるわけではない・・・。翌日寝不足。そのようなアテネ症候群の、私もその一人でした。

1. 金メダルの理由

 正直、私が柔道で知っていたのは谷亮子選手と井上康生選手だけでした。連覇ということは難しいし、またそれゆえに、価値あることと思います。
 強く印象に残っているのは女子70s級の上野雅恵選手です。2回戦に勝った後、ブスッとうつむいて歩いていました。
 前日の63s級谷本歩実選手の/「平成の三四郎」古賀稔彦コーチに背中をバンバン叩かれ/師匠譲りの必殺の一本背負い/勝ったらコーチに抱きつき/晴れやかな感動のスポ根ドラマ・・・と大違い。
 応援しているお父上のいかにも武道家という大髭/子供の頃からのスパルタ教育/超一流の『刈り技』/世界チャンピオン。
 準決勝に勝ってもブスッとしていました。決勝でも先にポイントを取られ、ブスッとしながら別に焦る風でもない。「今日はダメかな」と思いました。そしてあの「袖つり込み腰」です。『刈り技』を警戒していた相手は、オリンピックであんなにきれい決まるものかと思うほど、なすすべもなく投げられました。初めて会心の笑顔を見せました。
 翌日、スポーツ新聞を見ると、世界選手権で優勝した時、コーチに「オリンピックで金を取るには『担ぎ技』がなければダメですよね」と、ずっと試合には出さず、練習を続けていたそうです。
 「技に入った瞬間、勝った!」と思ったそうです。
 金メダルに理由あり。ゆえに花あり。
その次の日の78s級、阿武教子選手の準決勝の、『死闘』は凄かった。あの表情、集中と持続、言葉もなく感動します。人生を賭けたような重い内容でした。78s超級の塚田真希選手は・・・投げられたのにゴロンと・・・重かったのだと思います。

2.銅メダルの価値
 準決勝が終わると、男女2個づつの銅メダルをかけた3位決定戦を見ながら、優勝戦を待ちました。「涙と感動の金メダル戦・・・早く始まらないか」と思いながら見ていましたが「さきほどあれだけ死闘を演じて敗北した選手が、それを乗り越えて」と、これも涙と感動。
 銀メダルをもらう人のオリンピックは負けて終わるが、銅メダルは勝って終わる。(注:勝負ものに限る)
 そして人にとって、オリンピックは、決して終わりではありません。
 浜口京子選手が金メダルを取れなかったのは残念でした。今思えば、そのお父さんのアニマル浜口に(その現役の時のような)『元気』をもらうことを期待していたのかもしれません。その父が「お前、その目大丈夫か」と娘を気遣い、浜口選手の「これもレスリングにもらったもの」「金よりも大切なものを得た」というあたりは、さすがに父の子、「シブい!」と思いました。お母さんの言葉、「金と同じと書いて銅とよぶ」。

 実は、この観戦記も賃金・人事論です。楠田丘氏は「富士山が賃金カーブに見える!」と仰いました。オリンピックを見ても人事制度。
常に最善を尽くす「敗者復活加点」とか、いかがでしょうか・・・

3.ドーピングは何故ダメか

 オリンピックの最後の話題は、室伏広治選手に繰り上げ金メダルをもたらしたドーピングでした。
 「純粋な五輪精神」「真実の母−オリンピア」という精神的なことや、「剥奪」「追放」とかのリスクのことをここで言うつもりはありません。
 もっと本質的に、何故ドーピングがダメかというと、たとえ終生社会的に、神様や閻魔様にさえバレなかったとしても、金メダルという良い結果のサクセスポイントが不正であれば、それは成果とはなりえないからです。個人やその後に続くものにとって、アテネ・オリンピックは(北京というだけではなく)最終結果の場ではありません。明日も会社は存在します。
 成果とは、次の成功の原因となるものです。