[やる気はどこにあるか−日本史編]

1.鵯越の逆落とし

 NHKテレビの大河ドラマ『義経』は、「一の谷の合戦」いわゆる「鵯越の逆落とし」のシーンから始まりました。それから場面は「平治の乱」に敗れて都落ちする源義朝と別れる常磐親子のシーンに戻り、毎週(ほぼ)歴史通りに経過していくストーリーとしても、7月の内に「一の谷の合戦」は(1・2度見逃しているうちに)済んでいました。
「そこまでやるか!」とその商魂に感心させられた日経新聞社刊の週間『義経』も7月に終了しました。後は平家と義経自身の滅びのストーリーになることでしょう。さらにその後は、源家そのものまで・・・まさに諸行無常の鐘の音。
「今度も主役はジャニーズか・・・源平物なら、昔の『草燃える』は・・・良かったな。」などと思いながら見てきました。『草燃える』は永井路子原作で、源平合戦から承久の乱までの歴史を、頼朝(や政子)を中心に板東武士団が自立していく過程として描いていました。泣き落としが上手い頼朝役は石坂浩二。女王様のような政子役は岩下志麻。『義経』では弁慶役の松平健が、影の主役で最終勝利者となる北条義時役でした。でも今回の中井貴一の頼朝役は、実にそれらしい凄みがあります。

 さて、本題に戻ります。
小勢が大軍をうち破るシーンは「その時、歴史は動いた!」とワクワクさせる歴史物のハイライトです。義経の場合は、「発想」と「勇気」と「行動力」で。
 戦国末期で言えば、織田信長の「桶狭間の戦い」です。最近の説は、信長の勝因とされてきた迂回奇襲戦術には否定的で(迂回奇襲戦術説は義経の「一の谷」や「屋島」の影響かもしれません。)信長は、敵の現状をジャスト・タイムで掌握し、今川方から丸見えの位置から一直線に進んできたとされています。ならばその勝因は、「情報」と「スピード」にあったとするべきでしょう。

2.5万騎vs3百騎

 源平合戦と戦国末期、その中間の時代にも小勢が大軍を破り、歴史の流れを決定的にした合戦がありました。それは、建武3年(1336年)3月3日、今の福岡市の近くで行われた足利尊氏の「多々良浜の合戦」です。以前、HNKの大河ドラマ『太平記』が放送されたとき、「その時」がどのように描かれるか楽しみにしていたのですが、アバンタイトル(オープニング前の解説)で「鎌倉から京都に攻めあがった尊氏は、新田義貞や北畠顕家に敗れて、九州に逃れた後、その勢いを盛り返し・・・」との一言だけで捲土重来して、「湊川の合戦」になりました。
この神戸の近くでおこなわれた大戦の後に、尊氏は幕府を創設しますので、これが天下分け目の大戦とも言われますが、花のごとく散っていく楠正成の姿には見るべきものがあるものの、数(足利方は尊氏の海上10万以上+弟の直義の陸上軍数万騎)のうえでも、作戦面でもワンサイドな戦いでした。
確かに「多々良浜の合戦」は「小勢が大軍を破る」という劇的展開であったにもかかわらず、メイキング・ドラマにはなりにくい合戦であったかもしれません。

 その合戦、『太平記』には宮方4〜5万騎、武家方300騎とあります。『梅松論』では「敵はその勢6万余騎」「御方は〜300余騎にて大手に向かい、(九州での加勢を入れても)御勢1000騎には過ぎざりけり」とあります。
近畿で大敗した尊氏一党が九州に上陸した翌日、待ちかまえていた宮方の大軍に正面からガチンコしたのです。そして武家方が大勝しました。数は言うに及ばす、奇襲も、地の利も、相手を圧倒する情報もありません。南朝(宮方)の関係者が書いたとされる『太平記』では、この奇跡の原因を、突然に吹いた神風でもなく、直義の勇気と作戦でもなく、尊氏の「前世の善因縁」「武運が天の心に叶った」としています。(南朝は天意に背いていたと言うのでしょうか?)強風だけでは、映像として説得力はありません。
 足利幕府の関係者が書いたとされる『梅松論』では、この時すでに武家方にも、後の南北朝につながる、「新しい錦の御旗」が立っていたとされています。

 関東で対峙した足利・新田両陣営の「源氏の白旗」ならまだしも、敵味方共に「錦の御旗」では・・・。今で言えば、代表権のある社長と会長によって会社が分裂したようなものですが、当時としては信じがたい状況であったろうと思います。また、それが現実におこなわれ得る時代でもあったということでしょう。発想としては凄いものですが、それはテレビ映像にはなりにくいものです。
さて、それにしても大義名分としては5分と5分。では、武家方300騎の勝因は?

3.やる気のない奴は何人いてもダメだ!

 「相手にやる気がなかったから」です。
やる気のない兵隊が何人いてもダメだと言うことです。思わず「やる気のない奴は出て行け!」と言いたくなるような話しですが、それが大多数では大問題です。
足利勢に味方した九州の少弐頼尚は「敵は大勢なるも(本当にやる気のある)菊池勢は300騎を過ぎず」と言っています。
ちなみに、この宮方の中心であった菊池氏は、藤原北家の流れをくむと称する武将ではありましたが、『魏志倭人伝』で邪馬台国女王卑弥呼のライバルとされた狗奴国王の「狗古智卑狗」(菊池彦)からくるとする説もあるくらいの地元の古い家系です。鎌倉時代の不遇を挽回するチャンスと見ていました。

 後醍醐天皇の根本政策は、院政や摂関政治以前にまだ天皇が親政していた平安初期の王朝黄金時代「延喜・天暦の治」の再現。『古今和歌集』の時代です。
その反面「朕が新義は未来の先例」。その側近の考えは「武士は数代の朝敵である。味方に参ることによって家を滅ぼさぬだけでも皇恩と思え!(北畠親房『神皇正統記』)」。
その新政の経営実態は「此頃都ニハヤル物、夜討、強盗、偽綸旨」。
尊氏は、(頼朝の子孫が絶えた後の)源家の嫡流である自己の存在目的を「武家全盛の跡を逐ひ、もっとも善政を施さる(『建武式目』)」とし、北条家が独占を始める前の、鎌倉幕府が最も良かった頃に求めています。
どちらも過去の盛時を理想としていますが、過去の時代に未来の政策を仮託するのは、滅びた周を理想とした孔子以来、普通のことであったでしょう。
「延喜・天暦の治」と「武家全盛の跡」、それが両者のほんとうの「旗」です。
さて、どちらの「旗」が「実際に戦うもの」の「必要」と「欲求」と「希望」を捉えていたでしょうか?

組織者としては、この「戦うもの」とは、部下である以上に「顧客」そのものです。

「宮方の武士」のうちの何人かの武将が「勝ち馬に乗る」と指揮棒を一振りしただけで歴史に、少なくとも「足利」幕府はなかったでしょう。しかし「宮方の武士」という言葉が、端的に全てを語っています。「錦の御旗」でイヤイヤ動員された鎌倉恩顧の、約5万人の武士の目前には、敵方にも「錦の御旗」が翻っていて、敵の大将である『第二の頼朝』が決死の戦いを仕掛けてきたのです。

*根本政策が良ければ、それだけで経営が良くなるものでもありません。幕府のほうも、経営ミスや新しく生まれた矛盾を解決できなくて、その後はもうゴッチャゴチャ・・・

 「動機づけ−衛生理論」で著名なフレデリック・ハーズバーグは、不満要因の第一に「会社の政策と経営」を上げています。「宮方の武士」は職務による不幸を味わうほどに不満であったろうと思います。 
そして、その不満要因は動機(やる気)づける満足要因に連続しない、良し悪しによる表と裏ではないとします。確かに人間は、なんでも「良ければ満足」「悪ければ不満」というように単純なものではありません。
それでは、たとえ優れたものであっても「会社の政策と経営」は、
動機づける力にならないのでしょうか?
やる気にはつながらないのでしょうか?

そのあたりは、稿を改めて・・・

2005年8月 阿世賀 陽一