紀子さまの80点


1.こふのとり〜栄えくる

 9月6日、秋篠宮妃紀子さまが男のお子さまをご出産されたことにつきましては、思想・信条・社会的身分を超え、源平藤橘はもとより、邪馬台国もそれに属しない南の狗奴国も、さらには天孫族に国譲りした出雲族や「我ら物部の一族・・・(NHK大河ドラマ「炎立つ」より・・・良くそんなこと覚えているものだ)」の末裔にいたるまで、誠に慶ばしく、おめでたいことです。
 思えば、本年初めの歌会始で、秋篠宮殿下が
「人々が笑みを湛へて見送りしこふのとり今空に羽ばたく」
 と詠まれた後に続いての紀子さまの御歌。
「飛びたちて大空にまふこふのとり仰ぎてをれば笑み栄えくる」
をテレビで見たときには、思わず「巧い!」と感歎し、その調べの広がりにパワーを感じたものです。

2.120点と80点

 その後、電車の吊り広告に「雅子さまは120点主義 紀子さまは80点主義」と言う見出しを見ました。(週刊文春2006年09月14日号)
 おもしろい対比の仕方であると思いました。
 
 これが営業予算の達成率ならばその業績評価は明らかに「A」と「C」です。
 此度のような慶事においても、そのようなことを考えてしまうのが人事・労務屋さんの性(さが)というもので、ご寛恕戴きたく存じます。楠田丘先生は「新幹線に乗って、富士山を見るたびに、賃金カーブを想います。そのポイントは377,600円です」と仰せになりました。
(以下、もう雅子さまや紀子さまの週刊誌記事とは関係ありません)
 
人間が、自己や組織を成長させようと思えば、志高くやや背伸びして、果敢にチャレンジしていくことは必要なことです。その意味では、満点のさらに向こうにある120点を目指すと言うことは、なかなか凡人にはできない素晴らしいことであると思います。
 さてそれでは「80点」とは何でしょうか。予算達成率でなく、60点以上が合格である100点満点の試験であれば、悠々と合格ということです。
 ではさらに、人が望むベストな結果を100点とした場合、その80点との間には、何があるのでしょうか?

3.中間項または媒介変数

 人間の資質・能力やあらゆる努力は、そのまま結果に結びつくものではありません。

 人間の可能性を重視する楠田丘先生は「能力」と「成績」の間には「中間項」があると仰いました。
 中間項には、景気や社会的要因としての外部条件と社内の事情、上司・部下や組織風土などの内部条件、そして本人の配偶者・子やローン等々による諸条件による意欲などの本人条件があげられます。
 だから結果の全ての責任は、被用者の場合、本人には、そのまま問えないことが多いのです。
 
 結果である目標達成を重視された故滝澤算織先生は「何故、その会社の人事制度からは能力項目を外したのですか」という私の問いに、楠田先生と同じことを、遂行能力である「原因変数」と一定期間にあげた成果である「結果変数」の間に存在する「媒介変数」という言葉で、多くの時間を割いて、説明してくださいました。
 「媒介変数に遡るだけでも言い訳だらけになる。そしてプライバシーまでは問えない。原因変数にまで踏み込むと大きすぎる。(それは消化不良になる)単にそういう理由だよ。ただし、結果を問える人は限られているし、無理なことをすれば形骸化する。」
 
 仏教風に言えば第1原因と多くの外的・間接原因によって結果が生じるということです。もちろん、不可知論に陥ることなく、その原因を掴むことはとても大切なことですが・・・とかくこの世はままならぬものです。

4.残りの20点

 「世の中のことが思うようにならないからと言って、人を恨んだり、神や仏に頼んだりすることは、それこそが、世迷いごと(マイナス・コンピテンシー=成果反対行動)なのだということを、儂は気づかされました。」(三国連太郎「親鸞」より私風聞き取り)
 
 いかに優秀な人であろうとも、人は一人で生きていけるものではありません。仕事の上では、顧客をはじめ、良き敵や他者である味方を含めて、世の中には相手というものがあります。
 そのように考えると、「80点」ということは、それこそが自己に与えられた責任を全うするということです。無理に20点を埋めようとすると結果は逆になる。
 日本的な価値観は「和」である言われます。責任性の限界をカヴァーするのは協調性です。

 要は、人間、できることは何でもできる。できないことは、尊重するしかない。尊重しながら自己を超えていくのです。    

(阿世賀 陽一)