やる気はどこにあるか 動機論編−追加

1.○○庁は、なぜ仕事をしないか

「○○庁の『悪』について、ネタをください」
 この間、テレビ局や週刊誌から、そのような電話取材がありました。
 残念ながら(?)私は、○○事務所については、さほどイヤな思いをしたことがありません。年金番号の統合にしても、窓口ではおおむね親切な対応をしていただき、上手くいきました。

「・・・・他の省庁の出先機関との違いと言えば、過去の経緯から、身分は国家公務員なのに、組合員としては自治労であると言うことでしょう」
「自治労って・・・・地方公務員の?」
「そう。出向先で、そこの社長と労・使関係をもっているようなものです」
 地方公務員だから悪いと言う意味では、決してありません。
自分とその仕事についての責任ある帰属先は、とても大切なものだと言うことです。

(翌々日の朝・・・・『自治労特集』)
 あらあら。他にもそのような意見が多かったのか、よほどネタ切れしていたのか。

また電話。
「だいたい・・・・ハッキリ言って、おたくのキャスターは勉強不足です。解らないで、かつ今もって解らないまま、怒っているでしょう」
「・・・・・・・・・」
「まあ、あれほど売れている超有名なキャスターに、あなた方からそんなことは、怖くてとても言えないでしょうが・・・・」
「・・・・・・・・・」
「他局のキャスターは・・・・もう少し、理解したうえで話しているのが、見ていて判りわかりますよ」(こういうの、殺し文句というのだろうなあ)

(翌々日の朝「今日の特集は、ご一緒に、『年金の基本を知ろう!』です。テレビをご覧のあなた!賦課方式と積立方式の違い。知ってましたか?これは常識ですよ!」・・・・巧い。企画担当者は良い仕事をしています)

 ○○庁の悪口を言うのが趣旨ではありません。
「相談窓口では『お前達、そんなに仕事が嫌いか!』との怒号が飛んだ」と言うニュースについて・・・それは、私の考えるべきテーマです。

  その怒号は、おそらくは「50分(その後、45分に強化!)作業すると15分休む」「1日のキータッチは平均5000タッチ以内」等々の「覚書」等があって、「だから、データー化の作業にアルバイトを使っていた」「今も労働慣行としてあるだろう」と言う報道からくるものでしょう。それが「労・使」のそれなりの責任者が書面で記名押印したものであるならば、「覚書」「確認事項」などの名称にかかわらず、「就業規則」より規範力の強い「労働協約」です。
 「その合意内容に必ずしも合理性はなくもない」
と言うようなことを労働組合幹部がテレビで話していました。

 その「労・使」の合意は1979年。
 ・・・・昔は、そのようなキーを操作する業務は「穿孔業務」と言われていました。
機械式のタイプライターや小売店舗で使用されていた重いレジスターも含まれます。
レジは、まさに「打刻」するものであり(まるで、アタタタタタタタタの『北斗の拳』)、その頃は「腱鞘炎防止体操」が奨励されていました。
 しかし、労働者の安全衛生のための合意が、法的な規範力さえ持つ文字−文書になったとたん、既得労働条件になります。それも「労働しない」という条件です。
 その文書に拘束されてきた長い年月のうちに、どれだけの環境変化があったことでしょう。どれだけの職員がその激しい変化の中で「労働強化」を悪とする固定化した規範の下にあったことでしょう。それは不幸なことです。


2.罰と祝福/損と得
 
 「汝その妻の言葉を聴きて〜食らふべからずと言いたる樹の果を食ひしに縁(よ)りて〜汝は一生のあひだ労苦(くるし)みて食を得ん〜汝は面に汗して食物を食ひ、終に土に帰らん」(旧約聖書−創世記)と言う、「労働」は人間の原罪に対する「罰」であると言う考え方があります。だから、そのような考え方を前提とする社会では、その義務を終えて会社を退職することは、ハッピーリタイアです。

 その一方、「『汝の額に汗して糧を得よ』は〜日々を意味あるものとするため、神からの祝福でもあった」(ピーター・F・ドラッカー)と言う考え方もあります。

 そのような「罰」であり「祝福」であるということは、文化であり土壌です。その土壌のないところで、似て非なることを考え、かつ自分の仕事に価値を見いだすことに迷えば、苦しみである労働の対償(つぐない)は「貰ってあたりまえ」である給与の「損」と「得」になります。何をしても、しなくても、貰う給与が同じであれば、費用対効果的には「仕事をしない」ほうが「得」になります。

 それは、非営利組織も営利企業も同じことです。


3.「給与」が「賃金」になるとき 

 昨年、東京大学教授高橋伸夫氏の『虚妄の成果主義』に書かれていた、悪ガキに与える『こずかい』と神聖な労働の対価である『賃金』を同一視し、さらに「ハーズバーグも『給与』は衛生要因であると定義している。よって『賃金』は動機付け要因ではない。」と言うような、学者とは思えないような粗い主張に違和感を覚え、それを乗り越えようと、額に汗しながら副題「ハーズバーグの彼方に、ハーズバーグを超えて」をアレコレ連載しました。(「やる気はどこにあるか−動機論編」参照)

 今回は、そのハーズバーグの「動機付け要因」そのものを見て、「超える」でもなく、汗することもなく、次のように追加したく思います。

 「仕事そのもの」を働く者が価値あるものと実感するには、目的・存在意義・社会的役割である「ミッション」を明確に示すことが必要です。

 「成長の可能性」のためには、個々への期待と個々が希望をもてる、育成ステップとしての職能要件・職能資格や、職業人としての成長を評価する実力等級を定めなくてはなりません。

 「責任」と「昇進」のためには「役割」が必要です。
 「達成」のためには、もちろん「目標」と「チャレンジ」と「成果」が必要です。
 「承認」とは、相手をリスペクトした「人事考課」によるメッセージそのものです。

 それらを整えたとき、「給与」は労働の対価たる「賃金」になります。

(阿世賀 陽一)