等価交換の罠から成長への願い

1. 等価交換の罠

 景気は回復基調と言われる中、顧問先さまから「若年者が入ってこない」「定着しない」という嘆きをお聞きします。その一方で、テレビの特集では定職のないネットカフェ難民等々の報道がされています。
 「まじめに働く気があるならば、定職はいくらでもあるじゃないか・・・・」と思う日々ですが、そのような中、書店で、『私家版・ユダヤ文化論』を書いた(と言うより、たまたま私が読んでいた、他にも著書多数の)、レヴィナスなどのフランス思想が専門の神戸女学院大学教授、内田樹氏の『下流志向−学ばない子どもたち/働かない若者たち』という本の表題に目が留まりました。

 「志向」と言うからには、「格差社会」がケシカランとか、「下流社会」に統計的、表層文化的に「〜なっている」ことへの警笛とか云々ではなく、彼らは勉強しない方に、働かない方に、ある種の意欲をもって「〜向かっている」ということです。
 私風に言えば(成功の)反対行動に転落していく「マイナス・コンピテンシー」です。
 煩悩熾盛の無明の闇です。
(実存・レヴィナス→自力・他力→本願と、勝手にイメージが飛びました。その後、氏と浄土真宗の僧侶とのジョイント本が出ていたので、まんざら突飛なイメージ展開でもないか?と思いました)
 その神話のような、悪夢のような話しは、「等価交換」というキーワードから始まります。

 話しは飛んで・・・
 以前、東京大学教授高橋伸夫氏の「虚妄の成果主義」を批判した時に「悪ガキのコヅカイと神聖な賃金を一緒にするな!」と申しました。その「ガキのコヅカイ」とは、高橋氏が新聞紙上にも引用していたデシの次のような話しです。

 「ボロ服をまとった少年達は、ユダヤ人の仕立屋を「ユダヤ人!」とやじるのだった。(いつの時代も、弱い者をいじめたがるのは弱い者です)
 仕立屋は、それに対して(なんと!)報酬10セントを支払うこととし、さらにその報酬を5セント、1セントと不利益変更することにより、彼らの内発的動機づけ(やる気)を喪失させた。
(そんな凄い発想をするから、嫌われるのだろうな)
 よって、報酬はやる気の動機にならない。(徐々に上げていったという実験ならどうでしたかね)

 さて、少年達が「金銭的報酬」を介在させて、仕立屋を「ユダヤ人!」とやじることに
 (1) 社会的有用性や価値はあったでしょうか?
 (2) 顧客である仕立屋の生活は改善されたでしょうか?
 (3) 少年達は、貧困から脱したでしょうか?
 (4) 少年達の努力がその過程にあったでしょうか?
 (5) 少年達は、成長したでしょうか?
 (まったく、親の肩たたきをして、コヅカイをもらうほうがまだマシだわ!)

 少年達は、仕立屋の「等価交換」の罠に嵌ったのです。

 「等価」と行っても、「ユダヤ人!」=「10セント」という等価性は任意契約によっています。そもそも仕立屋は、少年達が彼を「ユダヤ人!」とやじることに価値を認めていません。価値がないからこそ、仕立屋の「申込」に少年達は「ボロい」と「承諾」し、成立しえた「契約」の価額を「5セント→1セント」とカットしていくことは、「申込」をした仕立屋の任意に任せられていたと考えられます。やはりろくでもない話しです。


2.等価交換による自己形成
 
 話しは戻って・・・
 以下、「空間的な等価交換」と言うキーワードで(あくまでも)私の頭の中でまとまった『下流志向』の、統計・実証的な証明であるよりも、我が身に返って身につまされ、どこにでも普遍性をもってあるだろうと確信させる「神話」のような話は、次のようなことです。


 子供が、6人(伯父伯母を入れるとそれ以上)の金ヅルからお年玉をもらい、デパートへ行ってゲームを買う。
 大人に「いらっしゃいませ」と歓迎され、「ありがとうございます」と感謝されて、満足する。
 そうして彼らは「労働主体(生産主体)」となる前に、「時間」と「変化」について無関心な、というより自ら目隠しをして得意げな、空間的「消費主体」としての自己形成を完了させる。

 余談ですが、私が初めて喫茶店でその種のゲームをした頃は、負けて「もう一度」と言うときには、100円を追加しなくてはなりません。数回やれば、一食分、食べられなくなります。
 しかし彼らは、死んでもリセットを押すだけで、タダで自分の分身を生き返らせることができます。そして、すぐ飽きます。
 
 時は、ピカピカの1年生もそろそろ飽きてきた、小学2年生の春。学校での教師との会話。
子ども「勉強して、何か得になることがあるんですか?」 
先生−「勉強すると、頭が良くなって、将来有利な就職をできて、良い結婚ができて、高い地位につけるから、得だよ」
(↑教師は、子どもの等価交換の罠に乗ってしまう)
子ども「ボク、就職できなくてもいいもん」
(↑そうして、それから10数年後、彼らの願いは希望通りに適えられるのであった)
子ども「私、別に・・・結婚したいなんて思わない」
(↑小学2年生ならあたりまえだ!・・・そして、その願いも、20年後、適えられることになる)
子ども「パパがテレビ見ながら『こんなに頭が悪くても総理大臣になれる奴がいるものだ』って言ってたよ」
(↑それは、もう言うな)

子ども「そもそも、人を殺して何が悪いんですか?」
先生−「・・・・(『では試しに君のクビを絞めてみよう』なんて言ったら、オレの方がクビになるしなぁ)・・・・」
(↑なんて、思っているうちに)
子ども「・・・・(嗚呼ボクは今、先生が回答不能になるような深遠な問いを発した。ボクは先生を乗り超えたのだ)」


3.等価交換と貧困スパイラル
 
 彼らは「勉学」や「労働」のような、本来「等価交換」ではない「プロセス」に自己を企投することはしない。
 無知とは、時間の中で自分自身も変化することに気づかないことである。
 
 消費行動である「等価交換」は、原則として「同時」でなければならない。
 バイトしながら、クレジット・カードでバイクや黒い本物のフェンダー・ストラトキャスターを購入する(買ってエリック・クラプトンのように弾ければ、もちろん「等価交換」ではありません)などと言う、未来を売る「逆転」の勧めに対しては、物欲が強い彼らは、ホイホイと乗る。
 自動車は所有すること自体にコストがかかるので、賢い主体者として欲しいとは思わない。(昔は、1000CCのクーペに夢を求めていたものでしたが・・・)

 彼らは、ストレスのある仕事をして、その対価を次の給料日まで待ち、会社の経常利益に貢献したうえで、20万円の安月給をもらうことについては、プライドの高い主体者として耐えられない。
 ましてや「年に一度の、不当な!人事考課によって評価されるなんて・・・・不当に決まっている!なぜならオレはきっとC評価だから(わかっているじゃないか)・・・・嗚呼、考えただけでもゾッとする。楽な仕事をして、その日のうちに5,000円を得るほうが、得ではないか」
 
 損をするのは損であるからと「等価交換」する限りにおいて、価値の総額は変化することがない。そうして、彼らは成長することを自ら禁じている。

(以上、一部の内容を要約、意訳)

 くれぐれも社長さんは、お孫さんや社員に安易なコヅカイを渡してはいけません。
 勉強は「わからない」からするものです。
 仕事の成果も、「できないこと」が「できる」ような、未来に向けられたものです。

 人材の育成と成長とは、いつの時代も、会社の経営がそうであるように、損(苦労)をして儲ける(成長する)という「時間的な運動」です。   

(阿世賀 陽一)